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天の一廓に開けた夢の園

2018.07.09 |

前回の記事「高野山という名の山はない」で紹介した天野の里は、こんなところです。かつて、白洲正子さんが『かくれ里』に書いたことで広く知られるようになりました。場所は高野山の少し下。

白洲正子は「あんなに美しい田園風景を見たことがない」とか「天の一廓に開けた夢の園」とか「天野に隠居したい」とかそれはもうベタぼめです。彼女が初めて天野に来たのは昭和40年前後かと思いますが、風景はその当時と大きく変わってはいないかも。

下の写真はこの里の小山に(想像で)復元された西行庵。西行の妻と娘が尼となって天野に住み、西行もこの地に暮らしたと語り継がれているためです。本当に西行やその妻子であったかどうかは謎ですが、女人禁制の高野山に入った夫や息子のあとを追い、天野の里に住みついた女人もそりゃいただろうなと思います。空海の母親だって高齢の身で四国くんだりから来て、高野山のふもとの慈尊院で暮らしたと言うじゃないですか。空海のような大物でも母恋しさに頻繁に山を下りたというのだから、一介の高野聖なら推して知るべし。

西行さんもこんな歌を詠んでいます。

  世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我身なりけり
(出家して世の中を捨てたつもりなのに、すっきり捨てきれてない感じで、心は都を離れず煩悩まみれの我が身なんです)

西行堂のそばには、西行の妻と娘の墓と伝わる塚もありました。

さらに興味を惹かれたのは、西行堂のすぐ下にある酒屋さん。西行の本名と姓を同じくすることから、古くは西行と関わりのあるお家ではないかと白洲正子も思いを馳せておりました。

集落の中には、待賢門院(西行が恋こがれた美魔女の璋子)に仕えた女房、待賢門院中納言の局の墓もあります。待賢門院璋子の死後、中納言の局は西行を追って天野に来たとされています。
西行は尼になった昔馴染みの女友達数人と連れ立って、天野の里から粉河寺、吹上の浜(今の和歌山市中心部)まで遊びに行ったこともあるようです。西行には中性的な魅力がありますし、彼女たちからしても女同士のような気楽さがあったのでしょう。にしても、尼さんと僧侶なのに、わりとちゃらちゃらしていて楽しそう。確かに世の中を捨てきれてない感じだし、出家して世の中を捨てたいなんて、数寄者が抱く究極の煩悩のような気もします。歌人ですもの。

天野には待賢門院中納言の局の墓もありますが、この看板が間違っていると白洲正子がすごく怒って『西行』の中に書いていました。正しくは「待賢門院中納言の局の墓」なのに「待賢門院の墓」となっているのです。私も現場で見つけたので嬉しくなって撮影。

この墓は地元では古くから「いぬの塚」と言われていたそうで、「院の塚」がなまったのではないか、とのこと。白洲正子が『かくれ里』の取材で初めて来たときは「いぬの塚」だったのに、20年ほどして『西行』の取材で訪れたら「待賢門院の墓」に変わっていて、道端にこの立札が立っていたそうです。「これは待賢門院中納言の局の墓であり、待賢門院の墓じゃない」と白洲正子はたいそうご立腹で「歴史ブームの欺瞞を見た」とまで書かれていました。
ややこしい話なので補足します。待賢門院の墓だと、西行を捨てた美魔女の璋子の墓ということになりますが、中納言の局は璋子に仕えた女房なので別人です。西行はこの方とも恋愛関係だったかどうかはわかりませんが、ともかく仲良しだったみたい。

以下、白洲正子の『西行』より引用します。
「天野は昔と変わっていないと書いたが、それでも少しずつ観光に蝕まれていたのである。そう云えば、最近、西行の顕彰会を作って、西行に関する遺跡を一堂に集める企画があることを耳にした。西行の遺跡といっても、そうたくさんあるわけではないが、さしずめこの塚などは、待賢門院その人が、西行の跡を追ってここに住み、仲良く暮らしたことになるのではないか。そう考えると寒気がするが、土地の有志が「顕彰」したい気持ちはわかるにしても、はしゃぎすぎると西行を傷つける結果になることを、くれぐれも注意しておきたい」

言ってることは正しいし嫌いじゃないけど、性格わるい。
(白洲正子は文章うまいけど性格悪いなぁと私はずっと思っているのですが、間違ってます?)
地元の人は意図して歴史をねじまげたのではなく、「待賢門院も待賢門院中納言の局もおんなじやろかい」と思ったのだと私は想像しますが……。

お墓の横には新たな案内板があり、「院の墓と伝えられているが、鳥羽天皇の皇后の待賢門院の墓でなく、院に仕えていた中納言の局の墓と考えられます」とありました。町の教育委員会も、ああまで書かれたら放置できなかったんでしょうか。白洲先生が取材に来た際には、役場の方々もちやほやして協力してきたのではないかと思うとちょっと気の毒です。
入り口には「待賢門院の墓」と書いた昔の看板を残し、お墓の横の案内板にわざわざ「鳥羽天皇の皇后の待賢門院の墓でなく」と断りを入れているあたり、なにやら事情がありそうな気もします。誰かが意地になったのかな。
なんかもう、「いぬの塚」のままでよかったかも。