(文/北浦雅子)
「30歳になるまで写真はやってなかったんです。なんの脈絡もなく急に始めて(笑)。最初はコンパクトカメラを買って2、3ヶ月したらもう一眼レフにかえてましたね。今37歳だから、撮り始めたのは7年ぐらい前です」
写真家の柴田祥さんにお話を伺ったのは、弘前駅近くのコワーキングスペースだった。柴田さんは関西人がよく言う「シュッとした」風貌。「地方人同士だから気が楽だと思って来てみたら、こんなシュッとしたお方……」と思って私は緊張する。
テーブルを囲む私たちの後ろには大きなガラス戸があり、その向こう側に交差点が見える。歩行者用信号が青になるたび「カッコー、カッコー」という電子音が室内にも聞こえてくる。会話が苦手な私たちだが柴田さんも決して得意ではないようで、三人の会話はポツポツと途切れる。そしてまたしても「カッコー、カッコー」が巡ってくるのだ。
そんな中で柴田さんから小島一郎の話を聞いた。
「写真を始めた頃に小島一郎のハイコントラストな白黒写真を見て、これは凄いと単純に思ったんです。今はまた違う意味で小島一郎の凄さがわかってきましたけど……」
小島一郎は昭和30年代に津軽地方を撮った写真家だ。北国の風景やそこに生きる人々を焼き付けた作風が高く評価され、36歳でプロカメラマンを目指して上京する。しかし東京で成果を生むことなく帰郷し、39歳の若さで急逝している。
孤高の写真家が撮り残した津軽の風景が、柴田さんの何かを突き動かしたのだと私は勝手に解釈した。「津軽の風景が変わっていくのを、写真に残しておきたいという気持ちもありますね」と柴田さんが言ったので。
「弘前の町もこの10年ほどでどんどん変わっていってます。このあたりも少し前まで商店街だったのに、郊外にモールができちゃって今は過疎ですよ。それと最近思っているのが、そのうち雪が降らなくなるんじゃないかって。雪の積もり方がここ数年でぜんぜん違ってきてる。だから雪の景色を撮れるうちに撮っておこうという思いもあります」
いつの時代にも、「記録する」ことに情熱を傾ける人が必ずいて、その恩恵を後世の私たちは受けている。「使命感を持っているわけじゃないけど」と柴田さんは最後に付け加えたけれど、「撮る者」として何か感じることがあるのだろうと、書く者のハシクレとして私は思いを寄せる。
「今ぼくが撮った写真が写真集になって残ったとして、それを見てまた、次の人が今の青森を撮ろうっていう気持ちになっていったら面白いと思う」と柴田さんが言った。
多くは語らなかったけれど、「小島一郎の写真を見て、ぼくが青森を撮ろうと思ったように」という意味だと思う。
柴田さんの作品の中には、小島一郎へのオマージュと位置付けている作品群がある。その作品群のタイトルは「津軽再考」。
「いちばん力を入れているテーマだし、いまだにそれは続けて撮っています。写真を撮ることによって地元のことを考え直すというのが、本当のところなんで。今まで個展でやってきたことの総集編のような写真集をつくるのではなく、未発表の作品も入れて津軽再考を再構築したいと思っています」
「では、写真集のタイトルは津軽再考?」と聞くと「そうですね」と迷うことなく柴田さんが答えた。「津軽再考って、ちょっと攻撃的なニュアンスもありますね」と硲さんが嬉しそうに言った。