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水辺の人の記憶から ③

撮影年:1965(昭和40)年10月
撮影地:和歌浦

干潟に竹ヒビを刺す時とか力仕事は男がやりますが、女の人の仕事も多かったです。真冬の収穫も海苔舟に乗って女の人がたくさん出てました。水は冷たいけども、水の中に手を突っ込んで海苔を爪できゅきゅとちぎって採るんです。採った海苔は海苔小屋(家の周辺に設けた作業場)までリヤカーで運び、洗ってから細かく切ってミンチ状にします。それを水に入れて砂などを落としたら、簾(す)の上に四角い木の枠を置いてザァーと流し込む。簾のすき間から、水だけが落ちるでしょ。そうして四角い形の海苔が残るわけです。それを全部、一枚一枚天日干しにする。海苔は採ったあとの仕事も多いけど、担っていたのは女の人と子どもでしたね。
この写真は友達のお母さんやな。海苔屋さんの子どもは家でせんなん仕事が多かったから、学校から帰っても外へ遊びに行かれへんかった。

(写真・話者/松原時夫)

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海苔の養殖をしていた人々を、松原さんは「海苔屋さん」と言う。かつて、和歌浦では誰もがそう言っていたのだろう。漁師を「魚屋さん」とは呼ばないのに不思議だな、と思っていたが、松原さんの話を聞いてようやく理解した。「海苔屋さん」と呼ばれたのは、それぞれの家で板海苔にまで仕上げ、商品として出荷していたからだ。写真のように女性は干潟にも出るが、採ったあとの加工作業で中心的な役割を担っていた。道具を整えるのも仕事の一つだ。

海苔の養殖はだいたい10月頃から翌年の春まで。それ以外の時期は家や海苔小屋で、網や簾を編み、必要な道具の準備をする。単純な作業には、子どもたちも大いに駆り出された。

「簾を編むのは子どもの仕事やったからね。あの頃はみんな家へ帰ったら、専用の編み台を使ってコットンコットンと編んだ。海苔屋さんの子はそれが嫌やった。ぼくは海苔屋の子じゃないから、せんかったけどね」

松原さんは簾を編む道具や工程について詳しく教えてくれた。海苔屋の子ではないのに、細部まで詳しく語れることに驚く。当時、和歌浦の子どもたちは地域全体を遊び場にしていたのだろう。松原さんも海苔屋さんの家で、興味津々で手仕事を見ていたのだと思う。手伝わされている同級生を、ちょっと気の毒に思いつつ。

写真は10月に撮られたものなので、海苔養殖のシーズンが今から始まる、というタイミングだ。舟に新しい網を乗せ、干潟に出ていくところだろうか。松原さんは写真の女性を見て、「⚫️⚫️君のお母さん」とさらっと名前を言った。ちなみに松原さんは海苔屋さんの子ではないが、しらす屋さんの子、だったはず。

 

『水辺の人』のサンプルは、こちらでご覧いただけます。